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2005-09-19

「名は体をあらわす」

最近、この言葉をよく思う。 例えば、名前をつける行為に近いことでは、
・肩書きをつける ・流行り言葉を使う
・コンピュータのことがよくわからない人に、 あれこれ説明するよりも「おまじない」と称して名前とやり方だけを教える。

名前があると、そのモノを知らなくても、 他のものとの違いを認識し、区別することができる。逆に、名前がないとそのモノを認識すること、区別することができない (まったくできないわけではないけど、他のものとの境目があやふやになったりする)
また、名前をつけることで、そのモノの本質とかを表すことができるけど、多くに広まると、得てして名前だけが先走りして本質を捕らえにくくなる。これは抽象化したことによる弊害で、仕方がないといえば仕方がない。だから、言葉からモノの本質に近づくという力をつけておく必要がある。でないと、言葉に振り回されてしまうから。 でも、振り回されることによって良いこともあるのかもしれない。それは、その言葉が指しているモノの置かれている場所とか状況による。

で、元に戻って「名は体をあらわす」をもう一度考えてみると、
「名は体をあらわす」という言葉は、
「名前はそのモノが何であるかがわかってありがたいなぁ」 ということじゃなくて、
「そのモノを表すように名前を付けなさい」ということを、
その言葉がないときの暗黙の了解であったことを 明文化したのかもしれない。