E-Blog

2005-12-05

DIEC2005@立命館大

参考:
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20051202/diec_01.htm
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20051203/diec_02.htm
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20051203/diec_03.htm

ゲームの国際シンポジウムについて。
場所が東京近辺であれば絶対に行きたかった( ´Д`)

記事の中にある宮本さんの
「ゲームをプレイしている人の姿って、
今までのゲームでは見たくないという部分があった」
というのがある。親がゲームをプレイしている子を見たときの
感覚のことらしい。

子供の頃にゲームがある状況で育った大人が
同じような状況になったとして、果たして同じように
「子供がゲームをプレイしているところを見たくない」
とどれくらい思うのだろうか?
子供の頃にゲームが無い時代に生まれた人と、
子供の頃からゲームがある時代に生まれた人では、
そこら辺の感覚に多少の違いが生まれていると思う。
その「見たくない」という感覚が無くなることが
良いのか悪いのかはわからないけど。


あと、AIとネットワークゲームについての話も興味深い。
PS3などで分散処理実現の敷居が低くなると、
ゲームにおけるAIの実現は活性化するような気がしてる。
例えば、分散環境の中でAIの知識を熟成させるような感じ。
(久多良木さんが「映像の熟成」って言ってたのを、
映像からAIに分野を移して利用するようなものとか)

ゲーム世界の中では目的とルールが絞られるから、
その範囲での知識の取り込み方とかを加えるとか・・・ね。
(学習機能を分散環境を使って実現する?)

このレベルでいくら書いても妄想の域を脱しないけど、
そういう可能性を秘めていそうな気が少しある。

ネットワーク越しに、
「今、一緒にプレイしている仲間(敵)は
リアルな人間なのか、それともバーチャルなAIなのか」
という判断は、(上のような方法かどうかは知らないけど)
AIが発達するとしたら今後は難しくなると思う。
ゲームの作り手側が人かAIかの区別を意図的に付けていれば
もちろん判るだろうけど、それを区別しなくても
ゲームができるようになってしまうのかもしれない。


今、次世代機と呼ばれてるものが終わるような時代
(今までのペースで行けば約5年後?)には、
ゲームの形はどうなってるんだろう。

ああぁ、何か頭の中がまとまらないなぁ( ´Д`)